「批判的思考」研究は何を目指しているのか

この文章は2005年3月から4月にかけて楠見孝さん*と私,中西との間で行われた一連の議論をまとめたものである。

私は長らく批判的思考[critical thinking]の研究を誤解していた。 私のいた環境のせいもあって,批判的思考についての研究発表を聞いたり本や論文を読んだりする機会が多かったのだが, それでもずっとわからなかったのだ。 それがなぜなのかはここでは探求しないとして,とりあえず議論の結果として知りえたことを書いておくことにする。 忘れてしまって後から後悔することのないように。

昨今,「批判的思考」についての心理学的研究が盛んである。 私はそもそもこの「批判的思考」という専門用語が 何を指しているのかがわからなかったので,楠見さんと議論しようという動機づけはそこにもあった。 しかし,「批判的思考」の定義がうんぬんという話はすでに多く世に出ているので, それがあやふやだということはとりあえず問題にせず,この用語の使われ方についてを切り口にした。 つまり,「批判的思考」研究を表題に掲げる心理学的研究はいったい何をしようとしているのか, という話である。叩き台に,私は疑問文と3種類の回答の選択肢を提示した。

なぜ「批判的思考」という言葉をもってきて研究を説明するのか?

  1. それらの研究は思考に関することでも「~~」というこれまでにな い新しい点を研究するので,批判的思考という新しい名前の概念を用い る。
  2. 批判的思考は別の領域の学者が提唱した概念で,これを心理学的に 研究するというのは,今のところ,これを(思考)心理学の言葉に還元 することであって,そのプロセスの進行途中である。
  3. この言葉を使用する正当な理由はないから,使わないのがよい。

これらの選択肢のどれなのか,複数両立するのか,あるいはどれでもないのか, を実際に研究している本人に直接お伺いをたてるという手っ取り早い(少々ラディカルな?)方法をとったのである。

これらの選択肢が含意することが伝わらなかったので,手っ取り早いと思って始めた議論だったのに いくぶん時間がかかった。そう,これも忘れると困るので,選択肢の意味するところについても多少触れておく。 1番目の選択肢は,「批判的思考」が新しい心理学的対象(現象か,構成概念か,構造か,何かしら)を 扱う概念だということ。よって新しいだけで十分研究する理由になる,という話。 「批判的思考」という用語を使う理由が「それが指すものが新しいから」だというなら皆これに○。 2番目の選択肢は,「批判的思考」は心理学者ではなく別の分野の学者に由来するもので, 「批判的思考」が指すものが心理学的に新しいかどうかはわからないのでそれを判断するために, あるいは,新しくないということがわかっていても心理学の知見からもとの分野に何か言えることを探すために, とりあえず心理学の用語にこれを翻訳しなければならない。 で,今それやってる途中,だからもう少し待ってね,という話。 翻訳してみないと新しいものが含まれているかわからない,という立場と, 新しいものは含まれていないだろう,という立場に分かれる。 新しいものが含まれているんだという立場なら 1番目に○をすればこの「保留」的な正当化は別段必要ないので,外してみた。 3番目は,まったくちゃんとした理由がないのになぜか使ってしまっている心理学者がいて, その人たちは間違っている,という話。 「批判的思考」を掲げて研究している本人に聞こうというのだから最初から3番目の答えが返ってくるはずはない。 そしてもちろん,私はずっとわからなかったのだから,3番目の人であった。

議論によって最終的に得た回答は,2番目である。 そして,立場としては「新しいものは含まれていないだろう」だそうである。 もっと言うならば,これは「教育的」あるいは「処方的」プロジェクトなのである。 純粋な認知心理学的な探求ではまったくない,ということだそうだ。 だから,その意義は,教育にある。認知過程の記述にではない。 私はここを大きく誤解していた。 「批判的思考」研究はおもいきり教育心理学なのである(もしかすると心理学ですらないかもしれないと私は思う)。 認知システムを記述するのに「批判的思考」という語は必要ない,というのが楠見さんの見解であった。


さて,この議論から,そして楠見さんの見解が正しいならば,いくつか指針を出すことができる。 そしてそれらをもって「批判的思考」の認知的教育心理学的研究を評価することができる。 まず,1)「翻訳(教育学の言葉と心理学の言葉との対応付け)に力を注いでいること」である。 そしてもう一つ,2)「処方の術を探求していること」である。 そして 2) に関連してさらに付け加えるとすれば,3)「その効果を教育的に適切に評価していること」である。

心理学への還元の途中だというのなら,1) に努めることは言うまでもない。 それには,「教育学の理論と心理学の理論はどこで橋渡しできるのか」以前に, 「教育において『批判的思考』とは明確に何を指しどういう外延を持つのか」 を明らかにしなければならない。 この手順をはずすことはできないように思われる。 そうでなければ「心理学の知見からどのような示唆を『批判的思考』教育に与え得るのか」 などという話ができるはずもない。 (これは「批判的思考」の外延を厳密に定めなければならないという話ではない。) また,教育的プロジェクトだと言うならば,2) も当然だ。 心理学における知見を他分野に応用する試みの中でも, 「どのようにすれば教育的目標が達成されるのか」を追求することを助けるのが教育的応用なのだから。 (心理学と教育との接点として教育哲学への示唆を思い浮かべるかもしれないが, それは処方的プロジェクトではないので別の話。 少なくとも「批判的思考」研究者はそのようなものを目指してはいないだろう。) そして,これらの試みの成果が上がったかどうかについては,第一に心理学のものさしで判断してはならない。 教育において成果が上がることを目標としているのなら,研究の評価は教育のものさしですべきである。 これを間違えるとまったく何をしているのかわからなくなる。 楠見さんの見解では「『批判的思考』の心理学的研究は純粋な認知心理学的記述を目標としているのではない」のだから, 研究の成果を「批判的思考の研究」として認知心理学者一般に説明し訴えることはお門違いだ。

これは「批判的思考研究を中心にすえている心理学的研究は認知心理学に何ももたらさない」と言っているのではない。 ある研究がいろいろな側面から評価可能だということはよくある。 「批判的思考」研究者が得た実証的データから認知心理学的に新しい発見をすることもあり得るだろう。 しかし,上の見解に従うならば,その場合は違う言葉でもって説明せよ,ということなのである。 なまじ認知心理学者相手に「批判的思考」という用語を用いると, かえって研究の説明を理解しにくくさせ混乱を呼ぶだけである,ということだ。 もちろん,教育畑の人間を相手にするならその土地に応じた説明の仕方をするのがよい。 要は使い分けであり,何を目的としていると語るかによって(語るには語る場があるだろうからすなわち場に応じて) 研究の見せ方を変える,という考えてみれば当たり前のことをきちんとしなければ,批判的思考の心理学的研究は 理解されないまま沈むだけだ,ということである。 そして,心理学者が「批判的思考」という言葉に乗っかって研究を説明するのが適切たりうるのは, 教育的プロジェクトに関する研究コミュニケーションの場くらいである。

  1. first published on 2005-04-28